ボーッとする事を、善にしてみた

歯磨きをしていたら、急にアイデアが浮かんだ。
シャワーを浴びていたら、ずっと考えてたことの答えがわかった。
一生懸命考えていた時には、全然だったのに。

そんな経験、ありませんか。

何も考えずにボーッとする。
これって、結構勇気がいることかもしれません。

時間の浪費、怠け者、生産性がない。
そんな罪悪感がすぐやってくる。

そもそも「何も考えない」こと自体が難しい。
頭を静かにしておくことが、こんなにも難しいなんて。

特に昭和世代のわたしたちは、
「頑張ること」「進むこと」「動くこと」が善だと教わってきました。
自分の人生をコントロールすること、そのために努力することが正義だと。

少なくとも、わたしはそう信じて生きてきました。
幸か不幸か、頑張ることができない落ちこぼれでしたが(笑

でも今は思います。
人生をコントロールしようとすること自体、
ちょっとおこがましかったのかもしれないと。

あの時そうだったように。
頭はパニックで「人生詰んだ!」と騒いでいるのに、
身体のほうは春の景色を見て、呑気に鼻歌を歌っていた。
その時わたしは、
頭とは別のところで、何かがもう知っているような感覚に触れました。

本当は、わたしたちの身体のほうが
頭より先に何かを知っているのかもしれません。

だから最近、ボーッとすることを意識的に「善」としています。
ボーッとできた日には、
「えらい、今日はよくできたね」と自分を褒めてあげます。

ボーッとすることは、怠けじゃなくて、身体の声を聴く練習。
頭だけに頼るのをやめて、もっと深いところに委ねる練習。

昭和に刷り込まれた「頑張ること=善」は今でもよく効いていて、
ひょっこり罪悪感が顔を出すこともあるけれど。

でもそのたびに、あの鼻歌を思い出すのです。

人生の舵を手放すこと。
それってずるい?
丸投げみたいで責任能力の放棄?

でも、それって弱さなんかじゃないかもしれない。

自分以外の誰か、身体の知恵、流れ、見えない力、
周りで支えてくれている全てのものを信じるということ。
心から相手を信じていないと、怖くて委ねることなんてできない。
ある意味、勇気のいることです。

この世界を信じてみる。

今のわたしに続く命の系譜を、
周りにいる人たちの命の繋がりを、
時間を超えたものを、信じてみる。

自分一人でコントロールしようとすることは、
実はとても孤独なことだったのかもしれない。
他力を借りること。
流れに乗ること。
それがむしろ、本当の意味で自分を信じることに繋がる気がしています。

その「他力」の一番近くにあるのが、自分の身体かもしれない。
だから身体を大切にすることは、最高の羅針盤を磨くことと同じだと思うのです。

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