ヨーロッパは今日から冬時間(標準時間)です。
昨日まで息子達が通学で家を出る時間はまだ真っ暗で、ライトがないと門の鍵穴が見えなかったのですが、今朝は同じ時間でもうっすらと明るくてちょっと嬉しい気分。気温はこれからますます冬に向かうというのに、明るいっていうだけで気分は上がります。
こういう時、明るさへの感謝の気持ちがわいてきますね〜。
それはそうと、昨日ちょっと考えさせられることがありました。
12歳の長男は、今までピアニストになりたくてピアノを一生懸命練習してきていました。
猛練習していた・・ってほどでもないのですが、彼なりに頑張っていたという感じではありました。聴いている側からも、彼の成長を嬉しく感じていました。
だから、当然ピアノが大好きで、将来もピアノで食べていきたいのだと思っていたんです。
たとえ大変な道でも、頑張ってそちらの道に進んできたいのだと!
だから、せっせとピアノコンサートに連れて行ったり、母(私)はその夢に協力しているつもりでいました。
ところが、その母の何気なく聞いた些細な質問から、話が思ってもみなかった方向へと進んでいきます。
「○○(長男君)は、何をしている時が一番楽しいの?何をしている自分が好き?」
長男「えーっと、本書いてる時。何の本を書こうかってストーリーを考えている時。
学校に行くバスの中では、いつも作家になった自分を想像してる。」
「・・・・・・・・・。」
「は・・・・・っ? 」
確かに、よく本を書いている姿を見かけてはいたけど。。
「本書きたいの?」
長男「うん。本書いたり何か作っていたりしたいんだ。本でもいいし、動画を作るのも好き。クラフトも好き。」
私は姿勢を正し、さらに質問しました。
「ピアノしたいんじゃなかったっけ?音楽学校目指してなかったっけ??」
息子はボソボソと
「うん、本当は、一番なりたいのは作家なんだ。でも本なんか書いたってたくさんの人が読んでくれなきゃ意味ないでしょ。作家になったって、良い本をずっと書き続けれるかわからないでしょ。お金稼げるか分からないでしょ。」
「ピアノももちろん好きだよ。でも本当は、本書く方がもっと好き。でも本書いて生活していける自信がないから。。ピアノは頑張れば頑張った分だけ上手くなる。でも本は有名にならなくちゃ読んでもらえない。」
な、な、な・・ちょーっと、待った!!!
私は、本当に本当に驚きました。
まだ12歳ですよ!?
読んでもらえるか分からないから?
お金稼げるか分からないから?
上手くいくか自信がないから??
いや、そもそもピアノで食べていくのだってそんなに甘い世界じゃないけどね!!笑
いくら練習したって、みんなが聴きたくなる演奏することってすごく大変なのよ?
根本的にピントズレてる感はありましたが、まぁ私の子なので、その辺は仕方ないとして・・。
何よりも、親として本当に申し訳ない気持ちになりました。
きっと、どこかで何気なくそんな話をしてしまったんでしょうね。
例えば「作家で食べていくのは大変だ」とか「このベストセラー作家の2作目は出てないね」とか、そういうこと。。
たかだか12歳の子供が、やる前から「上手くいくか分からないから仕事にはできない」と思っていたこと、「多くの読者に選ばれなけれないけない」と思っていたこと。
そんなふうに思わせていたなんて・・・
本気でやるなら何を目指してもいい、好きなことをやってほしい、自由に生きてほしい、そう伝えてきたつもりだったのに。言葉とは裏腹に、親の体に染み込んだ昭和的な思考が、実はプンプンと匂っていたとか?
確かに第二次ベビーブームの私たちの時代は、「選ばれる」ことの連続でした。
少なくとも私はそう思い込んでいました。
努力して、能力も人間性も磨いて、「上の人達」に「選んでもらう」人生。
良い点数を取れば評価され、良い絵を書けば賞をもらえ、受験、就職・・などなどで鍛え上げられたその他人軸脳みそは、選ばれるかどうかで自分の人生が左右されていくと信じていました。
その違和感からか、20代後半の私は、人生の大通りを抜け出し脇道に入っていきました。
(要は逃げ出しました)
働いていた外資系企業を辞めて海外へ短期留学に行くと決めた時、「バカだねぇ。その年齢で仕事辞めて短期留学なんて。もうまともな人生に戻れないよ。」みたいなアドバイスを受けたけど、その会社や仕事は好きだったけど、それでも飛び出したい衝動を抑えられませんでした。
私は、選ばれて入った整えられた安全な水槽を抜け出し、いつどうなるかも分からない川に飛び込むことを選びました。
そしてその川は、私を様々な場所に連れて行ってくれました。
モルジブ、ドイツ、アメリカなど、1年とか数ヶ月の短期間ずつだけど色々な国で仕事を経験できたし、色々な国を見てみたくて1人であちこち旅行もしました。
そこで学んだことは私にとって数知れず。
常識は多数決でしかなく国によって変わること、国が変われば価値基準も美の基準も変わること、同じ出来事でも見る角度が変わると違う事実になること、など。
様々な経験を通して、今は「選ばれなければ好きなことはできない」という人生を選んでいたのは私自身だったのだとわかります。私は自分の能力や人間性の判断を、選ぶ側の人に委ねていました。選ぶ側の人がYesと言えば私には能力があり、Noと言えば私にはその能力が無いのだと。
でも年齢を重ねるごとに、あの違和感が何だったのかがわかってきます。
試験や面接で評価されていたのは、私の一面でしかなかったことも。
全ては私がそれを受け入れたから、そう信じ込んでいたから、そうだったわけで、本当はそんな事実はどこにも無かったんだってことも。
だから、息子たちにも「選ばれる生き方」を選ばないでほしいな、なんて思います。
「選ばれ」なくても良いんです。選ばれなかった場所は、あなたがいるべき場所ではない。
自分の「好き」を頼りに、自分で選んで進んでいってほしいなぁと。
本が書きたいなら書けばいい。自費出版でもいいし電子書籍でもいいし、どこかの宣伝文でも書いてたら他の仕事を依頼されることだってあるかもしれない。なんか本書いて友達に読んでもらっていたら、人が集まってくるかもしれない。
動画が作りたければ動画を作ればいい。動画好きが集まって楽しい何かが始まるかもしれない。
そこから、流れは続いていくはずだから。
「好き」「やってみたい」を頼りに進んでいけば、きっと自分にとっての一番幸せな場所に辿り着くはず。
だって、たくさんの選ばれなかった経験がありながらも、今私は今までの人生の中で一番幸せな現在にいるから。あの場所に行っていたら今の自分はいないわけで、今の家族とも巡り合っていないわけで。
だから、あの選ばれなかった経験は私には必要のなかった場所だったのだと思います。行かなくていい場所だったから行けなかった。行くべき道があったから、そうでない道に呼ばれなかった。
無駄に抵抗せず、「好き川」の流れに流されていくのも良いのでは?
そんなことを息子とのんびりと話した日曜日でした。
自分で言いながら、自分にも言い聞かせているような気分になり、「ん?これって私が(無意識に)息子に言わされたセリフなのかも??」なんて思えてもきました。
私も「好き」とか「選ぶ」とかの感覚を、ちょうど思い出す出来事があったところだったから。
改めて、自分に従おうと思い直しました。
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